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3月も終わりですね~


今月は中盤から休みなく撮影が入ってまして気が付いたら今日で3月は終わり。桜の花も見頃が過ぎてしまったみたいですね。


そんなこんななんで、花見にも行けず・・・てな感じです。月末は初めて行く制作さんや久々の所が多くて、何時もより緊張した日々が結構続きました。



4月は少し休養を取りつつ、更にアグレッシブに撮影に挑みたいと思います。・・・その前にたまりにたまった衣装の洗濯物を片付けなければ・・・



写真は、先日現場に向かう途中で桜並木が綺麗だったのでその時の物です。
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天才

お前ってトーマス・エジソンに似てるよね

いつも拝見させていただいてます
もしかしたらゲイの人とHできますか?

睡眠薬旅館のやつと時間が止まるやつの温泉の作品が好きです

杉浦さんが羨ましい…w

No title

分の行為に対する、当人にとっては他人を説得できるだけの内容があると思われる論理的な名分。

その思い・考えが第三者的に正当な場合も、そうでない場合もある。別名:「保身」

「記憶に御座いません」「秘書がやったことです」「誤解を与えたのなら申し訳ない」「配慮が足りなかった」「不適切な対応だった」

No title

ハゲ(禿、禿げ)とは、老化、疾病および投薬、火傷、遺伝的要因などにより髪の毛が薄い、もしくは全くない頭部などを指す。またハゲた場合頭皮に艶が出やすい。頻繁に動詞化するが、その際「禿」の字が使われることはまれである。





目次
[非表示] 1 原因 1.1 老化
1.2 精神的理由
1.3 病気
1.4 薬
1.5 放射線
1.6 外傷
1.7 自分で抜く

2 文化
3 頭髪以外での用例
4 社会人類学的考察
5 旧ソ連における歴代支配者を巡る頭髪の法則
6 脚注
7 関連項目


原因 [編集]





前頭部禿げの例(俳優のショーン・コネリー)




ほぼ全体が禿げている例(政治家のウィンストン・チャーチル)
毛が抜けることを総じて脱毛症という。医学的側面についてはそちらを参照のこと。

老化 [編集]

もっとも普通に見られるのは、老化によるハゲである。年が進むにつれて毛の生える面積が狭くなる。その進み方は大きく二つあり、ひとつは生え際から額が広くなるように禿げる。これを禿げ上がるという。特に両こめかみからよく進む。

もう一つは頭頂部から次第に髪の密度が少なくなるように禿げ、その結果てっぺんに地肌が出るが、まわりの髪は残る。俗に「カッパ禿げ」とも呼ばれる。これを伸ばして禿の上を覆うようにし、毛がまばらになった隙間から肌が見えるのをバーコードに見立てたのがバーコードハゲという呼称になった。両者が同時に進む場合もあるが、最終的には後頭部に髪が残るか、すべて無くなることもある。 禿げはじめた男性が頭髪を丸刈りにして禿げていることを誤魔化そうとする例が散見されるが、髪の残った部分が再び伸びはじめると毛根が消失している部分との差異が際立ち禿げていることがはっきりするため、あまり有効な手段であるとはいえない。

一般的にハゲとは毛が生えていない状況を指すものと思われがちだが、毛根がいきなり死滅するのではなく、ひとつの毛根から生える頭髪の数が減るケースが多く(2 - 3本生えているものが1本になるなど)、また毛が十分育たないまま成長が止まったり、成長する前に抜け落ちてまた生え変わるといったサイクルが早くなったり、毛髪の太さが細くなるなどの原因により、髪の毛の本数自体は一般的な人の毛髪量と大差がないのに、髪の毛が細くなったことにより髪の密度が減少している状態も「ハゲ」と呼ばれることが多く、毛根の数自体が減少しているためであると誤解されるケースが多い。また、毛根が死滅していても産毛が生えてくるケースがあるが、密度的には薄いため当然ながらこのようなケースもハゲと呼ばれることがある。

女性の場合、完全に禿げることは少ないが、加齢と共に髪の密度が低くなるのは普通で、この場合頭頂部付近から全般に薄くなることが多い。

精神的理由 [編集]

ストレスで髪が抜ける場合もある。円形脱毛症は代表的な例である。

病気 [編集]

円形脱毛症にはアレルギーなどが原因の場合もある。他にケルズス禿瘡など。

薬 [編集]

薬剤の副作用として頭髪が抜ける例もある。抗ガン剤はその点で有名。

放射線 [編集]

ある程度の放射線に被曝した場合に起こる急性放射線症の症状のひとつとして脱毛が起こる場合がある。毛根細胞が被曝により障害を受け毛髪が細くなり切れやすくなることから起こる。参考:財団法人放射線影響研究所 急性放射線症

外傷 [編集]

頭髪の出る部分の皮膚に怪我をすると再生した皮膚から頭髪が出ない。小さいものなら自他共に気付くことは無いが、ある程度の範囲があると、小さなハゲとして認識される。やけどの場合、広い範囲となる可能性がある。

自分で抜く [編集]





キリスト教の聖職者、クレルヴォーのベルナルドゥス。洋の東西を問わず、宗教の聖職者は頭を剃り上げる者が多い
以上は毛が抜けたり生えなくなることでハゲになるものだが、中には自分自身の加工でハゲになるものもある。ファッションとしてのスキンヘッドや、職業による坊主等の例がある。その他、精神的なストレスのために自分で毛を抜いてしまう、という例もあり、抜毛症という。

但し、狭義で「ハゲ」と言った場合、不可抗力で自然に脱毛したものを呼ぶのが一般的である。いわゆる「坊主刈り」も、毛髪の極めて少ない状態をハゲになぞらえて呼んでいると言える。

文化 [編集]

ハゲはじめは男性にとって恥ずかしく感じられることが多い。それを目立たなくするために髪型などを工夫すると「ハゲ隠し」と笑われることがある。しかし、いよいよ禿げてしまえば開き直るより仕方ないと考え、ハゲを自慢する方向に転じる場合もある。禿頭コンクールが開催されたこともある。中には禿頭に卵白でパックして艶を出す人もいるらしい。ツル多はげます会(青森県鶴田町)や光頭会(横手市雄物川町)、禿頭会といった団体もあり、「全国ひかりサミット」という団体交流の場も開かれている。あとは流行で、スキンヘッドや丸刈りにしてる方に対しても悪口で、ハゲと言う人もいる。

ハゲの問題は、古くから人々を悩ませてきており、例えば旧約聖書に登場するエリシャには、子供たちにハゲ頭をからかわれた時、その子供たちを呪い、結果として42人の子供たちが熊に襲われたという逸話が載っている。

頭髪以外での用例 [編集]

ハゲ(剥げ)とは、年月の経過、天候・気温・湿度の影響などによって塗料などが剥がれてしまっている部分、またその状況をいう。意図して剥がした場合には言わないことが多い。接着剤で接合したものがはがれかかっている場合にも、言うことがある。この状態を表現する語としては「ハゲチョロ」も多用される。

社会人類学的考察 [編集]

江戸時代、多くの身分の男の髪型は月代を剃った髷のスタイルである。この習俗は平安時代の後期からあったと見られている。武士の男性は元服とともに前髪を落とした。公的な場では必ず月代を剃り、髪型を整えた。このように髷のスタイルは成人であるための公的な証明であり、出仕している武士であることの証明でもあった。そのため、髪が抜けすぎて髷が結えなくなると隠居するという慣習があり[1]、禿げていても出仕する必要がある武士はかつらの使用を願い出ることもあった。

このような頭髪の一部をそりあげる習俗は世界各地にあり、後に清を建国する満州族にも頭頂部以外を剃り、残った髪の毛を長く編んだ辮髪の風習があった。清が中国大陸を支配すると、辮髪は全ての男性に義務付けられた。これは清の支配を受け入れたという証であり、髪を剃らない者は反逆者として扱われた。頭髪を剃ることが所属を表す形であったと見られている。

旧ソ連における歴代支配者を巡る頭髪の法則 [編集]

ソビエト連邦及びロシア連邦において、レーニン、スターリン、フルシチョフ、・・・、ゴルバチョフ、エリツィン、プーチン(2000年 - 2008年)、メドベージェフ、現在のプーチン(2012年 - )に至るまで、歴代指導者の頭髪が、ハゲか否かで順繰りとなっている。これはジョークでつるふさの法則と呼ばれる。実際にはスターリンとマレンコフ、アンドロポフとチェルネンコというようにフサフサが連なっている時期が存在する。

No title

久々にコメント返信してほしいな。
ボッ樹君、昔はきちんとコメント返信してくれたのに最近はする気配もないから寂しいな。

No title

上原浩治





移動: 案内、 検索


上原 浩治
Koji Uehara



ボストン・レッドソックス #19




レンジャーズ時代(2012年3月13日)



基本情報



国籍

日本



出身地

大阪府寝屋川市



生年月日

1975年4月3日(38歳)



身長
体重

6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg



選手情報



投球・打席

右投右打



ポジション

投手



プロ入り

1998年 ドラフト1位(逆指名)



初出場

NPB / 1999年4月4日
MLB / 2009年4月8日



年俸

$4,250,000(2013年)



経歴(括弧内は在籍年)




東海大学付属仰星高等学校
大阪体育大学
読売ジャイアンツ (1999 - 2008)
ボルチモア・オリオールズ (2009 - 2011)
テキサス・レンジャーズ (2011 - 2012)
ボストン・レッドソックス (2013 - )



国際大会



代表チーム

日本



五輪

2004年、2008年



WBC

2006年





この表について[表示]









オリンピック



男子 野球





2004

野球


上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は、大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(投手)。ボストン・レッドソックス所属。





目次
[非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り前
1.2 巨人時代
1.3 メジャーリーグ時代 1.3.1 ボルティモア・オリオールズ
1.3.2 テキサス・レンジャーズ
1.3.3 ボストン・レッドソックス


2 選手としての特徴
3 国際大会での活躍
4 人物
5 詳細情報 5.1 年度別投手成績
5.2 タイトル
5.3 表彰
5.4 記録
5.5 背番号

6 関連情報 6.1 出演

7 参考書籍
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク


経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]

大阪府寝屋川市出身。実父が監督を務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始める[1]。寝屋川市立第十中学校では野球部が無かったため、同じ団地内にある「明徳アスナローズ」で野球を続けながら、陸上部に所属した[1]。この頃の夢は体育教師になることだった。進学した東海大学付属仰星高等学校では、団体競技ではあるものの個人技の要素が強い投手なら試合を支配できるとの理由で野球部に入る。同学年の建山義紀はいくつもの高校から勧誘された末に同校入りした逸材で、その投球を見た上原は「自分の投球などはキャッチボールにすぎない」と思ったという。

1、2年時は中学時代に陸上部で鍛えた脚力を見込まれて外野手を務める。3年になって投手になるが建山の控えでほとんど登板機会がなく[1]、同校も夏の府大会で敗退したため全くの無名選手であった。その頃、建山がプロ球団などから勧誘され、また同校ラグビー部の大畑大介がマスコミの注目を集める中、上原は体育教師になる夢を叶えるため大阪体育大学への進学に備える。受験にあたっては運動能力、学力とも合格ラインに達していると自負していたが結果は不合格となる[1]。

この時のショックは未だに忘れられないほど強烈なものだったが、浪人してもう一度受験することを決意する。隣町の予備校に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした[1]。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。またこの時期にノーラン・ライアン著の「ピッチャーズ・バイブル」を読んでトレーニングしていた。翌年、再度大体大を受験し合格、野球部に入る。1年半ぶりの投球は上原自身が驚くほど球威が増しており、中野和彦監督が球速を測らせたところ146km/hを記録した。

その年の阪神大学リーグでは主戦投手として優勝に貢献。大学選手権でも好投し、プロのスカウトから注目される。大学3年時の1997年、日米大学野球選手権大会では大会タイの14三振を奪い、メジャーからも注目される。この大会で速球が通用したことでプロでやっていく自信が芽生えたという。日本代表に選ばれた同年8月のインターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となり、この年のインターコンチネンタル最優秀投手賞を受賞。秋の大阪経済法科大学戦では1試合21奪三振を記録。これはリーグ記録として残っている(2010年現在)。4年時の姫路獨協大学戦ではノーヒットノーランを達成した。大学4年間で通算リーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)、36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という成績を挙げた。通算36勝と完封13はリーグ記録。

1998年のドラフトでは松坂大輔と並ぶ目玉と目され多くの球団が獲得に乗り出し、最終的にメジャーリーグのアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツによる争奪戦となる。一時はエンゼルス入りに傾いたが、大学2年の時から熱心に勧誘し続け、他球団が松坂獲得を狙う中でも一貫して上原を熱望していた巨人を逆指名し、1位で入団した。入団後、上原は背番号19を希望。この数字には、大学受験に失敗し浪人生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている。

契約について、(2012年3月15日付朝日新聞朝刊)最終的に巨人から上原側に、5億円+退団時の功労金7,000万円+出来高3,000万円が支払われていたことが報じられた。1998年12月15日付けの上原の契約書類では、契約金の支払い方法については、1999年1月初旬に1億円、2000~2007年度に各5千万円の計4億円、としている。巨人軍にとって出来高払いは税務上、契約金の分割払いとみなされ、通常の出来高払いとは違う会計処理をしていた。上原も税務申告する際、契約金の一部であることを明らかにしていた[2]。さらに、同日付の年俸締結書類では、入団1年目の1999年度の年俸は「3300万円」だが、セ・リーグ会長に提出する「統一契約書」には、「1300万円」と明記することも盛り込まれていた[3]。

巨人時代 [編集]

プロ1年目の1999年は、毎週日曜日に登板するというローテーションが組まれていたため、サンデー上原と呼ばれた。前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。新人投手の記録としては1966年に堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。10月5日のヤクルトスワローズとの最終戦では、既に中日の優勝が決まった後の消化試合であり、専らの注目はタイトル争い。各チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争っていた[4]。上原自身も中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっていた。この年、ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取ることに成功する[4]。しかし、この間松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けたことで、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチから敬遠の指令を受ける。指示に従いストレートの四球で歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を蹴り上げ、全力で投げ込み、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭った[1]。9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びたものの、2失点完投勝利で20勝目を挙げた。最終的には20勝4敗の好成績を残し、両リーグを通じて1990年の斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としては1980年の木田勇以来19年ぶりの20勝投手となった。最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。また、新人王と沢村賞も受賞する。自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は(鈴木啓示の座右の銘「草魂」より)、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。

2000年は7月2日の広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。7月27日には川崎市内で自家用車を運転中にオートバイと接触事故を起こし、オートバイの男性が重傷を負った。この事故について、球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受け、業務上過失傷害で書類送検され罰金30万円の略式命令を受けている。これによりアサヒ飲料「十六茶」のCM契約も打ち切られる。この事故や転倒なども重なり、9勝7敗に終わる。ポストシーズンでは福岡ダイエーホークスとの日本シリーズ第3戦に先発し、チームの1勝目と同時に自身のシリーズ初勝利を挙げ、その後の4連勝でチームの日本一に貢献する。

2001年4月13日の横浜ベイスターズ戦で左太ももの肉離れを起こし離脱。早期復帰を果たすも万全でなく、後半戦では右ひざの故障もあって低迷。2年ぶりに2桁勝利するものの、防御率は自身最低の4.02に終わる。しかし、2002年には、200イニング登板を達成し、17勝5敗の好成績で最多勝と沢村賞、ベストナインを獲得。西武ライオンズとの日本シリーズ第1戦に先発し、12奪三振・1失点完投勝利の快投でチーム史上初の4連勝日本一に貢献し、優秀選手賞を獲得。シーズン後に行われた日米野球にも選出され、バリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグのスカウトからの注目を集める。

2003年7月20日から8月29日にかけては7試合連続完投勝利を挙げるなどの活躍で最多勝争いに加わるが、最終的には20勝を上げた井川慶に軍配が上がり、2年連続で200イニング登板達成で16勝5敗の成績を残す。

2004年、アテネオリンピック野球日本代表に選出。防御率0.50で銅メダル獲得に貢献。五輪と故障で一時戦列を離れていたものの、シーズンは13勝5敗と防御率2.60を記録し、2度目の最優秀防御率も受賞。9月14日には元モデルの山﨑美穂と結婚した。この年の契約更改で年俸が3億円に到達。入団6年目での3億円到達は史上最速であった。

2005年は年間を通して不調に苦しみ、9勝12敗で自身初めてのシーズン負け越しを経験した。





巨人時代(2006年)
2006年、開幕前に行われたワールド・ベースボール・クラシックには日本代表エースとして3戦2勝の好投で優勝に貢献。特に準決勝ではこの大会の対戦で2敗していた韓国を相手に7回を無四球無失点の快投で勝利を呼び込んだ。

レギュラーシーズンでは球団史上最多、7度目(7年連続)の開幕投手を務め自身5年ぶりの開幕戦勝利をあげ、8月25日の阪神戦で、ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイとなる191試合目での100勝を達成。しかしシーズン全体を通しては調子が上がらず、援護にも恵まれなかったこともあり8勝9敗で2年連続1桁勝利で負け越した。

この年から、巨人の財団法人骨髄移植推進財団への支援開始をきっかけに、自身も骨髄バンクへの登録を呼びかける活動を始める。6月に自らも骨髄バンクに登録し、試合前のイベントなどで登録を呼びかける。また、シーズンオフには東海大学医学部付属病院へ訪問し病気の子供達にクリスマスプレゼントを渡している。

2007年は、故障による出遅れと、抑えの豊田清の不調が重なり、この年は抑えとして起用される。5月2日の中日ドラゴンズ戦でプロ初セーブを挙げた。8月5日には球団史上初の4日連続セーブを記録し、8月29日のヤクルト戦では球団新記録及びプロ野球タイ記録の月間11セーブを挙げた。9月26日の中日戦でも球団新記録となる31セーブを達成。最終的には32セーブを挙げ、MVP投票でも2位の評価を受けた。プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏豊に次ぎ史上2人目であった。中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ・2ndステージでは第2戦・第3戦に登板したものの、シーズンにもなかったビハインドの場面に登板。レギュラーシーズンで12試合登板無失点7セーブを記録していた中日打線にも李炳圭にソロ本塁打を浴びるなど追加点を許し、3連敗でのクライマックスシリーズ敗退後はベンチで号泣した。オフには初めて巨人の後輩(西村健太朗)を伴い自主トレを行った。

2008年4月4日にFA権を取得。7日に会見を開き、来季のメジャーリーグ移籍を宣言。巨人清武代表からは「全力を上げて慰留する」と同時に、「今までよく我慢してくれた」という労いの言葉が贈られた。シーズンではかねてから希望していた先発ローテーション復帰を果たす。初登板時で完投を記録するも、4失点で敗戦投手となり、10奪三振を記録する快投を披露すると共に本塁打を連続被弾し降板するなど、その後も勝てない状態が続く。中4日登板なども試すが成績は悪化し、原辰徳監督自身がマウンド上に駆け寄り、降板するという異例の光景も見られた。5試合に登板して4敗、防御率6.75と不調が続いたため、4月27日付で一軍登録抹消。故障以外ではプロ入り後初となる二軍落ちを経験した。シュートを覚えて投球フォームを崩したことや、長いイニング投球での怪我を恐れるあまり投球フォームの足の踏み込みが甘いことなどが不調の原因ではないかと本人は語っており、「こんな気持ちは初めて、投げるのが怖い」とまで漏らした。

二軍では小谷正勝コーチなどと調整・投球修正を続けていた。7月に五輪代表監督星野仙一の五輪代表招集要望で一軍に緊急復帰し、セットアッパーとして登板するも、調子を取り戻すことはできずに終わる。しかしそれでも星野から「日本代表に最も必要な男」と国際試合での相性・経験を見込まれ、五輪代表に選出。一軍でも尾花投手コーチと遠投に取り組むなど、引き続き投球修正を続け、原監督には精神的な部分での問題を指摘され、ビハインドでの救援や、僅差で2アウトからの救援など、段階を上げながら失敗・成功を重ねた。前半戦最終戦、五輪代表合宿合流前の最後の試合となった7月29日、8回1点差から登板し1イニング無失点、その後4点差となったことで9回も続投して3三振に抑え、この年の一軍初セーブを記録した。

前年に代謝異常の難病を患っていた斉木翔太君と「元気になったら東京ドームでキャッチボールをする」と約束。8月28日の東京ドームでの横浜戦の試合前に約束は実現し、斉木君はその試合で始球式を務める。この様子はその年の24時間テレビで放送された。この試合では約4ヶ月ぶりの先発復帰を果たし、先発投手として693日ぶりの勝利を上げた。その後も尻上がりに調子を上げ、北京五輪後は7試合で4勝1敗。唯一の敗戦もソロ本塁打での1失点のみで防御率2.08という好成績で巨人の逆転優勝に貢献した。西武との日本シリーズでは第1戦(11月1日)に先発したが、負け投手となる。10月以降の敗戦は自身初であった。第5戦にも先発したが、3回2失点で降板。しかし打線の援護でチームが逆転勝ちしたため敗戦は免れた。

11月14日にはFA宣言を行い、正式にメジャーリーグ挑戦を表明[1]。SFX社のマーク・ピーパーを代理人とし、1月6日にボルチモア・オリオールズと2年契約で基本合意。13日に2年1000万ドル+出来高600万ドルで正式に契約を交わし、同球団初の日本人選手となった。背番号は巨人時代と同じ「19」に決定した。

メジャーリーグ時代 [編集]

(日付は全て現地時間)

ボルティモア・オリオールズ [編集]





オリオールズ時代(2009年)
2009年は開幕から先発ローテーション入りし、4月8日のニューヨーク・ヤンキース戦で初登板初勝利を挙げた。その後も5試合連続のQSを記録するなど安定した投球を見せていたが、4月29日のロサンゼルス・エンゼルス戦では7回に腹部にライナーを受け、降板。この回はトリー・ハンターとケンドリー・モラレスに2打席連続本塁打を浴びていた。腹部に異常は無く、本人は「息ができなかった」、「ボールがバレーボールの大きさに見えた」、「内出血していないから大丈夫」などと話した。5月27日に左太もも裏の痛みが再発したため、15日間の故障者リスト入り。更に6月28日には右ひじ腱の部分断裂により再び故障者リストに入り、以降もリハビリを続けたものの、シーズン中の復帰は断念した。

2010年1月1日より株式会社スポーツカンパニーとマネジメント契約を結び、8月にはグリーンカードを取得[5]。シーズンでは序盤こそ故障に苦しんだものの、復帰後はリリーフに配置され、8月22日よりクローザーに抜擢。同日のテキサス・レンジャーズ戦の9回に登板し1安打無失点に抑え、メジャー初セーブを挙げた。その後クローザーに定着し、8月30日には1球セーブを挙げ、シーズン最後の週には週間MVP候補に挙げられる活躍でシーズンを終えた。特に7月16日のトロント・ブルージェイズ戦でシーズン5個目の四球を与えて以降は一度も四球を出さず、MLB歴代4位タイの32試合連続無四球を記録。四球1つあたりいくつ三振を奪ったかを示すK/BBはアメリカンリーグ全投手中最高の11.00を記録。シーズン終了後にインサイド・エッジ社の発表したメジャーリーガーの通信簿では両リーグ最多セーブを挙げたサンフランシスコ・ジャイアンツのブライアン・ウィルソンよりも高い評価を得た[6]。12月9日には地元紙のボルティモア・サンがオリオールズとの再契約に合意したと報じ[7]、250万ドルの出来高を含む総額550万ドルの1年契約を結んだ(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)[8]。

2011年はセットアッパーとして安定した投球を続け、7月まで43試合に登板し1勝1敗、防御率1.72、WHIP0.70(リーグの救援投手でトップ)という成績を残す。また前年から続いていた連続無四球試合数は36試合にまで伸び、MLB歴代3位の記録となった。

テキサス・レンジャーズ [編集]

2011年シーズン途中の7月30日にトミー・ハンター、クリス・デイビスとのトレードでテキサス・レンジャーズに移籍し、高校時代に同級生であった建山義紀とチームメイトとなった。背番号は巨人、オリオールズ時代と同じ「19」。8月は環境の変化に対応できず11試合の登板で防御率6.52、WHIP1.24を喫し、被本塁打率は3.72と大きく打ち込まれたが、8月31日には55試合登板を達成し、翌年の契約オプションを更新[9]。9月は10試合の登板で防御率1.23、WHIP0.23と復調し、チームのポストシーズン出場に貢献。シーズン通算ではリリーフ投手中リーグ1位のWHIP0.72、同5位の奪三振率11.77、同2位の与四球率1.25を記録し、ストライク率は両リーグトップの71.9%だった[10]。また、K/BBはメジャー全体で4位であった。レンジャーズ移籍前後を比較すると球速や投球割合、ストライク率など基本的な投球に大きな変化はなかったが、被本塁打率だけが大幅に増加した[11]。

ポストシーズンではタンパベイ・レイズとのディビジョンシリーズ第2戦で初登板を果たすも、エバン・ロンゴリアから3点本塁打を浴びる[12]。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦でもミゲル・カブレラに本塁打を打たれ[13]、さらに第5戦でもライアン・レイバーンに本塁打を打たれてポストシーズン史上初となる3戦連続被本塁打を記録[14]。チームはワールドシリーズ進出を決めたが、「レギュラーシーズンは良かったのに、この3試合で成績すべてが消えた感じになった。もう1回、チャンスがほしい」と語り[15]復調を目指したが、セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズではロースターから外れ、チームは第7戦で敗退した。

2012年1月23日にトロント・ブルージェイズとのトレードが成立した[16]が、ブルージェイズを含む6球団に対してトレードの拒否権を持っていたため翌日に移籍を拒否し、トレードは破談となった[17]。5月12日のエンゼルス戦で29試合ぶりの四球を出すまで球団の連続無四球試合数記録を更新し、2球団で連続無四球試合数の球団記録を更新。20試合の登板で防御率2.11、WHIP0.70と好投を続けていたが、右広背筋を痛めて6月14日にDL入り[18]。その後マイナーでリハビリ登板を続けていたが、右広背筋に再び張りが出て復帰が遅れ、8月26日にDLから復帰。レギュラーシーズン最終戦まで14試合連続無失点を記録し、後半戦は17試合の登板で1セーブ、防御率1.23、WHIP0.54の成績を残したが、チームは地区優勝を逃す。ESPNの1900年からの統計によると、この年のK/BB14.33は、年間35イニング以上を投げた投手ではデニス・エカーズリーが1989年と1990年に記録した数値に次ぐメジャー歴代3位の記録だった[19]。

ポストシーズンではボルチモア・オリオールズとのワイルドカードゲームの8回に登板しクリーンナップを3者連続三振の快投を見せるも、チームは敗退しディビジョンシリーズ進出を逃した[20]。

ボストン・レッドソックス [編集]

2012年12月6日にボストン・レッドソックスと総額425万ドル+出来高の1年契約で合意したことが報じられ[21]、18日に契約した[22]。

選手としての特徴 [編集]

トルネード投法気味のノーワインドアップとスリー・クォーターから投げる伸びのある最速153km/h(プロ入り後の最速は149km/h)の速球(フォーシーム、ツーシーム、カットボール)とフォークボールを軸とし[23]、フォークはSFFに近い落差の小さいものや空振りを取る落差の大きいもの、スライダー回転やシュート回転をかけた左右に曲がりながら落ちる軌道など数種類のフォークを投げ分ける[23][24][25]。クローザーに抜擢された2010年後半からはチェンジアップを速球とフォークボールに次ぐ割合で投げるようになった他[23]、速球を多投する傾向が見られた[26]。平均球速は88mph(約142km/h)[23]とメジャーのリリーバーとしては最も遅い部類に入る球速だが[27]、速球に微妙な変化をつける他、投球フォームにも速度の変化をつけて打者のタイミングを外し[28]、リリーフとしてのメジャー通算奪三振率11.36と奪三振を量産している[29]。稀にスライダー、カーブも混ぜ、メジャー移籍後はひと指し指と親指だけで投げる「一本指カーブ」をキャンプ前のトレーニングで練習していた[30]。

フォークを覚えたのはプロに入ってからで、アマチュア時代は、マッスラとナックルカーブを軸にしていた。本人曰く「フォークを覚えたらスライダーの投げ方が分かんなくなっちゃった」ためプロ入り後数年にわたってスライダーを封印した[31]。大学時代には最速153km/hを記録[32]するなどアマチュア時代からプロ入り当初にかけては150km/hに届こうかという速さだったが、プロ入り後は最速149km/h、平均球速は140km/h前後となっていた[33]。抑えを任された2007年は、最高147km/h、平均でも140km/h前半という球速を記録している。

特筆すべきはその制球力であり、奪三振を与四球で割るK/BBでは生涯100イニング以上投げた投手の中で日本プロ野球歴代最高となる通算6.88(2位は川上憲伸の3.78、3位は遠藤一彦の3.32)[34]、メジャーリーグでも生涯35イニング以上投げた投手の中で歴代最高の通算7.97を記録している(2012年終了時点)[35]。日本での10年間の1549イニングで与四球数はわずかに206個。通算与四球率は1.20で、「精密機械」と呼ばれた北別府学の1.90、小山正明の1.80といった、往年の名投手たちの記録を大きく上回る。暴投も非常に少なく、10年間で10個しか記録していない。この制球力に加えて、一球ごとの投球間隔が非常に短く、速いテンポでどんどんストライクを投げ込んでいくため、2時間程度での完投勝利もしばしばあり、1999年7月4日の横浜ベイスターズ戦では1時間59分での完投勝利も記録している。

一方で、メジャー通算の被本塁打率1.15と被本塁打が多い傾向がある。巨人時代は抑えを務めた2007年を除いて毎年2桁の被本塁打を喫しており、シーズン20被本塁打以上も5回記録。2003年から2006年にかけては、4年連続で与四球数よりも被本塁打数の方が多いという珍しい記録を残している。

国際大会での活躍 [編集]

本人は「対戦相手に恵まれていただけ」と謙遜するが[31]、外国チームとの国際試合では大学時代から数えて25戦12勝0敗2セーブ(2008年8月18日時点)、「国際戦負けなし」という無類の強さを誇る[36]。

大学3年夏に日本代表に選出された第13回インターコンチネンタル・カップの決勝・キューバ戦で、強気の投球で5回と1/3を投げて1失点と好投し、キューバの連勝記録を151でストップさせた[34]。2006年のワールド・ベースボール・クラシックでは2次リーグ初戦のアメリカ戦で勝敗が付かなかったが5回1失点と好投し、対戦成績0勝2敗で迎えた準決勝・韓国戦で7回無失点8奪三振と好投して勝利投手になるなど大会2勝を挙げた。2007年12月の北京オリンピックアジア予選でも1セーブをマーク。2008年、シーズンは絶不調だったものの北京オリンピックでは完璧な投球を披露し1セーブを挙げた。北京オリンピック終了後に日本代表引退を表明した[36]。

人物 [編集]

座右の銘には「雑草魂」を挙げている[1]。

入団当初からメジャーへの強い希望を持ち続けており、2004年~2005年オフにもポスティングシステムによる移籍を直訴してきた。しかし球団はポスティングシステム行使を容認せず、メジャー移籍を果たしたのは2008年のFA権取得後となった。現在も『ポスティングの12球団統一ルール』の施行を主張している[1]。

2010年からルパン三世のようなもみあげを伸ばし髪を短く刈った髪型にし[37]、NHK BS1の番組『MLBハイライト』のBest Shotコーナーで上原の事が取り上げられると、ルパン三世のテーマやルパンに関する歌などが流れるようになった。

物事をはっきり言う一面があり、東北地方太平洋沖地震で揺れる日本の中において開幕強行に踏み切るセ・リーグについて、「正気の沙汰とは思えない」と痛烈に批判した[38]。 2002年オフにロベルト・ペタジーニが7億円の年俸で入団することについてある番組で尋ねられた時、貰いすぎだと言って明らかに不快感を示したことがある。 また、Sports Graphic Number2010年 1/21号で「何故巨人に入りたいと思っている奴がいるのか解からない、巨人は過大評価されすぎ」と語ったことがある。

詳細情報 [編集]

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温水洋一





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ぬくみず よういち
温水 洋一



本名

温水 洋一



生年月日

1964年6月19日(48歳)



出生地

日本 宮崎県都城市



身長

165 cm



血液型

AB型



職業

俳優



ジャンル

テレビドラマ、映画、舞台



活動期間

1988年 -



配偶者





公式サイト

オフィス ワンツゥースリー



主な作品



『 BOSS』『ぬくぬく』『タカトシ&温水が行く小さな旅シリーズ』




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温水 洋一(ぬくみず よういち、1964年6月19日 - )は、日本の俳優、タレント。本名同じ。通称、ぬっくん[1]。 宮崎県都城市出身。身長165cm、体重58kg。既婚。





目次
[非表示] 1 人物・来歴
2 出演 2.1 テレビドラマ
2.2 映画
2.3 DVD
2.4 劇場版アニメ
2.5 舞台
2.6 CM
2.7 CD
2.8 ナレーション・声の出演
2.9 その他 テレビ

3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク


人物・来歴 [編集]

宮崎県立都城西高等学校卒業。俳優の永瀬正敏は2年後輩にあたる。中学時代は「ぬらりひょん」と呼ばれていた。日本福祉大学卒業。1988年から劇団「大人計画」に在籍、1994年に退団。在籍中は、松尾スズキとともに「鼻と小箱」というコンビを組んでいたことがある。

1994年に竹中直人のコント番組『竹中直人の恋のバカンス』にレギュラー出演したことから、独特のキャラクターがお茶の間にも知られるところとなり、それ以降TV番組での活躍が増える。 1998年には安斎肇、村松利史らとオフィス「ワン・ツゥ・スリー」を創立。個性派俳優として数多くの舞台やドラマに出演しているが、バラエティ番組でも活躍。

『明石家マンション物語』に出演した際、明石家さんまから「ぬっくん」という愛称をつけられた。以後もさんま司会のテレビ番組やコントライブに多数出演している。

頭髪が薄くなっている事をネタにされ、また自虐的にネタとして扱っている。また、俳優としての実績に胡坐をかくことなく、バラエティ番組にも積極的に出演している。これは「笑いの感覚は鍛えておきたい」という本人の貪欲な姿勢によるものである。愛すべきイジられキャラとして老若男女から支持されている。

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コメント返信する気なんかないんだよ
嘘つきのクソハゲなんだから

No title

今年の3月分のコメントからだけでもいいのでコメント返信してください。
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